■ 経歴と科学者・技術者の探究心 ストリーミングビデオ 経歴と科学者・技術者の探究心 先ほどは白川さんの記念という事でこの話をすることになりましたけれども、私は白川さんや、それから身近で仕事をさせて頂きました 江崎玲於奈博士、こういうお二人のノーベル賞受賞の先生方とは、私の研究態度というものは大きく違っております。 私は航空宇宙工学の技術者でございますので、その時々に応じて、時代に応じて、必要なテーマを与えられ、それを達成する、 というやり方でございます。先ほどの白川さんや、江崎さんは若いころから目的を立てられて、それにまっしぐらに進まれて 非常に純粋な生き方をされていらっしゃいますけれども、それに対して私のはどちらかというと、かなり場当たり的なところがあるのです。 しかし、人それぞれにですね、状況に応じてそうしなくてはならないことも多々あるのですね。たとえば、私は大学に入りましたが、 大学に入ったときに、ちゃんと専門を決めていたのかと申しますとそうではないのですね。私の父親は法律家でして、 私は反骨精神でどちらかというと親父が法律をやるなら私はその方向には行かないとくらいのつもりで理工系を選んでしまったのですね。 それから、どうしても東大に行きたいという願望があって、なんとなく理Tに行きたいという思いがあって、 そういうことで進路を決めてしまったようなこともございます。それから大学に入ってから専門を決めるときも、 まあ大体、応用数学的なことをしたいな、とは思っていたのですが、そのころ応用数学とか計測工学という学科は、 かなり優秀な成績を取らないと入れないということで、それならば、数学の応用できる航空学科に行こうというぐらいな、 かなり不純な気持ちで決めてしまったこともございます。 それから、航空に入りまして、私はやはり航空に入った以上は、実践的に色んな事を体験したいという事がありまして、 航空に入って自分で飛行機の操縦をやらなくては航空行ったという顔はできないのじゃないかということで先ほども申し上げました通り、 スタンフォードに行きまして、すぐにパイロットのライセンスを取って、今日でも飛行機を操縦するようになったのです。 そういうことで航空をやりましたけれども、航空と言いましても最初はアポロ計画の研究に参加するとか、 その後はポストアポロ計画の深海潜航艇の研究をするとか,それから日本に帰りましてからは、垂直離着陸機の実験機の研究をするとか、 あるいは当時まだ現在のH−T、H−Uというものの液体燃料を使ったロケットの開発に着手したばかりの頃でございましたので、 そのころのLE―3というロケット・エンジンの開発に携わったり、その後はHOPEという無人宇宙往還機開発計画ということをやったり、 いろんなことをやって参りました。 それで筑波大学に来ましたら、ここには航空学科というものがございません。そこで、いろんなことを、いろんな人と共同研究を致しました。 その中で一番記憶に残っているのは、人工動脈弁を作ろうという研究をしようという提案が医学の筒井達夫先生からありましたので、 筒井さんと人工動脈弁の研究を致しましたが、ここでもやはり私としては、実証的に研究をしたいので、 まず私の体の心臓とはどんなものかということをカテーテルで撮影していただきました。私の左心室の動き、 それから動脈弁がどこにあるのかというのを、この目でリアルタイムで観察して納得したようなところがございます。 その後、筑波大学を辞めて、郵政省のほうから今度は、今ここで背景(映像の)にありますような通信・放送の仕事のお誘いがありましたので、 これもまた新しいチャレンジとして取り組んでいるところでございます。 このように、科学者・技術者それぞれいろんな生き方がございますけれども、やはりいろんなことに好奇心を抱いて観察して、 そして体験をしていくということが非常に大切なんじゃないかと思います。科学も技術も非常に楽しいですよ。 BACK ▲ ごあいさつ NEXT ▼ 二人のノーベル賞学者とのエピソード 1